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--年--日 スポンサー広告 こめんと- とらっくばっく-

『浮雲』20120921


 田所が、このごろ、厭によそよそしてゐるのも、かうした心を見抜いての疎遠なのではあるまいかとも考へてみる。邦子と一緒になつた時にも、田所には多くの迷惑をかけてゐた。そのくせ苦労人の田所は、少しも富岡に対して迷惑がつた顔色もみせないで、佛印から戻つた孤独な自分に、協力の手を差しのべてくれた事を思ふと、田所だけを責めるわけにもゆかないのだ。
「私、あんな女の方に、家のまはりを歩かれるのは厭です。何か、おありになるンぢやありませんの‥‥。とても、貴方の御容子が以前とはまるきり違つて来てゐるンですもの」
「馬鹿な事を言ふもンぢやない。何も変つてはゐないよ」
「それでは、私が、そのお立替のお返しに参りましてはいけないンでせうか?」
「男のやる事に、よけいな心配はしないがいゝ」
「でも、何だか、私、腑に落ちないンですもの‥‥」
「本人の僕が、心配をするなと言つてゐるンだから信じたらいゝだらう」
「えゝ、それは、さうでせうけれど。貴方は、あの女の方に、何か負目がおありになるンぢやありません。あの方の話が出ると、急に怒りつぽくおなりになるわ」
「君がつまらん疑ひを持つから怒りつぽくなるンだ。僕は仕事の事で、田所の方の仕事もおさきまつくらで思ひ悩んでゐるンだ。よけいな不安は口にしないほうがいゝね」
 富岡は、もう一度、しみじみと佛印の山林に出掛けてみたい気がしてゐた。山林以外には、どうした事業も身には添はない気がして、親も妻も家も、みんなわづらはしい気がした。あの大森林のなかで、一生涯を苦力で暮してゐる方が、いまの生活よりはるかに幸福に思へた。
 干潟の泥土の中に、まるで錨を組みあはせたやうな紅樹林の景観が、どつと思ひ出の中から色あざやかに浮んで来る。ぎらぎらと天日に輝く油つこい葉、幹を支へる蛸のやうな枝根の紅樹林の壁が、海防でも、サイゴンでも港湾の入口につらなつてゐた。ビロードのやうなその樹林の帯を、富岡は忘れる事が出来なかつた。もう一度、南方へ行つてみたい。
 今度こそ、あの戦争中の狂人沙汰な気持ちから頭を冷して、静かに研究出来るやうな気がした。だが、幾度その思ひ出に耽つてみたところで、身動きもならない身では、その考へもいたづらに身心を疲れさすだけだつた。
 海を渡る事が出来ないとなれば、泳いででも渡つてゆきたかつた。家の問題も、富岡にはどうでもよかつた。このまゝ消えてゆけるものならば、この息苦しさから抜けて、南方へ行く密輸船にでも身を託してみたいのである。
 邦子は、不気嫌に黙り込んだ良人の冷い顔を見てゐたが、急に涙が溢れて来た。
「何を泣いてるンだ?」
「私、苦しい。とても苦しいのです。いまごろになつて、私は、罰があたつたのだと思つてゐます。人の罰が当つたのですわ」
「小泉君の事でも思ひ出したのか?」
「いゝえ、そんな、あのひとの事なンか。‥‥貴方がこのごろ、私と別れたいと思つていらつしやるのだと思つて、いろんな罰を受けてゐる気がします」
「暮しが苦しいから、君はそんな苛々した気になるンだ。別れるなんて、僕は少しも考へてはゐない‥‥」
 富岡は嘘をついてゐる自分にやりきれなくなつてゐた。自分の嘘の塊が、ざくろの実のやうに、くわつと口を開いて自分を笑つてゐるやうに思へた。


===
(ひとりごと:この最後の部分の表現、スゲエなぁ~。)
2012年21日 林芙美子『浮雲』 こめんと0 とらっくばっく-
  

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