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--年--日 スポンサー広告 こめんと- とらっくばっく-

『浮雲』20120920

 生一本な加野を、狂人のやうにしてしまつてまで、あの時は、富岡はゆき子を得た。その為に、ゆき子は加野から傷つけられたが、あの時は無雑作に二人は結婚出来ると考へてゐたし、また二人はそれだけの心の準備をしたつもりだつた。富岡は急に味のなくなつた朝の食卓から、早く箸を置いた。ゆき子の不幸な姿に済まなさを感じた。旅空での、男の無責任さが反省されもした。此の家を売るとなれば、両親にも妻にもそれぞれ金を与へて、自分は無一文で、ゆき子と一緒になるべきではないかとも空想したが、その空想は少しも慰さめにはならなかつた。
「お金でも、その商會でお借りになつたンでございますの?」
 白粉気のない邦子が不安さうに訊いた。
「昨夜、何時頃だ」
「七時頃でせうか。買ひ物に参りましての帰りでしたわ。貴方が遅くお帰りでしたので、つい、申し上げるの忘れてゐましたけれど、今朝、ラジオの尋ね人で、ほていと言う名が出ましたので思ひ出しましたけど、ほてい商會つて、何の御商売なさる処なンですかしら‥‥」
 富岡は返事もしなかつた。何時も朝の遅い食事だつたので、父も母も他の部屋にゐた。邦子は新聞をたゝみながら、
「私が、参りましてはいけないでせうか?」と言つた。
 憑かれたやうに、富岡は邦子の細面の顔を見てゐた。この秘密を妻に何も彼も打ちあけたい気がした。富岡は疲れてへとへとな気持ちだつた。妻に、自分の秘密を洞察して貰ひたかつた。この不安を長く続ける勇気もないくせに、ゆき子の問題には何一つ親身になつてやらうとしない身勝手さが、富岡には自分でよく判つてゐた。みんな自分のやつた事なのだ。日本へ戻つてからといふもの、富岡はまるで人が変つたやうに、固い仮面を被つて、自分の感情をおもてに現す事を好まなくなつてゐた。邦子はさうした良人に対して、もどかしく水臭いものを感じて、あの派手な化粧の女とのつながりが、無関係ではないやうに思へ、不安で暗いものを直感した。このごろの富岡は、眼には落ちつきがなく、邦子を愛撫し、抱擁してゐても、突然その動作を打ち切つて深く溜息をつくやうになつてゐた。昔のやうな強烈な力を使い果たさないうちに、富岡はあきらめたやうに、冷く邦子を突き放す時があつた。
「貴方は、佛印からお帰りになつて、とつてもお変りになつたわ‥‥」
 と、富岡が帰つて来た早々に邦子が不思議さうに言つた事があつた。富岡も自分の変化はよく判つてゐた。朝々髭を剃るたび、鏡の中の自分の顔が、スタヴローギン的な厭らしさを感じないではない。絵に描いた美男子ではなかつたが、それに、唇は珊瑚の色でもなく、顔色は白く優しくもなかつたが、このまるきり違つた東洋の蒼ぶくれの男が、何となく、悪霊のなかのスタヴローギンのいやらしい外貌に似てゐる気がして気持ちが悪かつた。
2012年20日 林芙美子『浮雲』 こめんと0 とらっくばっく-
  

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