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『浮雲』20120919

十八

 富岡は信州行きがのびて、一向に田所の処の話が埒があかなかつた。何でも素早く立ちまはらなければ、世の中はどんどん変つて行くのだ。金の価値もすつかり変つてしまふと言う風評も飛んだ。いまのうちに、材木をしこたま豫約しておきたかつたし、此の頃、紙の闇も激しいと聞いて、その方にも手をのばしたかつた。だが、かうして、世の中に独りでごろりと放り出されてみると、富岡は自分の無力さを悟るのだつた。誰も信用できるやうな顔でゐて、ひそひそ語りあひながら、その実、胸の中には自分一人で胸算用をしてゐる‥‥。敗戦だとか何とか言つたところで、みんな、不安な方へ考へを持つて行かうとはしてゐないのだ。このどさくさに、何とか力頼みなものが自分の周囲にだけ転がつてゐるやうに、無雑作に考へたがる‥‥。戦争をしてゐる時よりは、この革命的な、スリルのある時代の方が誰にも好ましかつた。人間はすぐ退屈する動物だ。どんな変形でもいゝ、変化のある世代がぐるぐる廻つてゆく方が刺戟があつた。
 富岡は、まづ、さうした事業の手始めに、家を買つて資金をこしらへるより術はないと考へた。まづ、五六十萬の現金さへつくれば、その金を土台にして、あとは何とか出来てゆくやうな気がした。このまゝ手をつかねて、この時代をやりすごすには忍びないのだつた。

 或朝、食事の時に、邦子が、ふつとこんな事を言つた。
「ねえ、この間、尋ねてみえました、ほてい商會の女の方ですね、私、昨夜、家の近所でおめにかゝりましたけれど、あの方、このお近くにお知りあひでもございますのかしら‥‥」
 富岡は、忘れようとしてゐたゆき子のおもかげをふつと瞼に浮べた。黙つて味噌汁をすゝつてゐると、この近くをうろうろしてゐるゆき子の苛々した顔つきが心にこたへて来る。
「ご主人は、何時頃、信州からお帰りでせうかつておつしやるものだから、私、どう言つてお返事していゝか判りませんので、もしも、帰りの道で、貴方にお逢いになつては工合が悪いと思ひまして、昨日、戻つて参りましたつて言ひましたのよ‥‥。何か、御用でございましたら、傳えますつて申しましたら、御近所まで来たとおつしやつて、いまずつとほてい商會に住んでゐますから、夜分にでも是非お出掛け下さいと傳へてくれつておつしやるンですの‥‥。そして、先日お立替したものをお返し願ひたいとおつしやれば富岡さん御承知ですつて、そのまゝさつさと行つておしまひになりましたのよ。とても派手な化粧をした方ですのね」
 息苦しい気持ちで、富岡はゆき子のその後の消息を知らされた。それでは、住むところもなく、あのホテルに居着いてゐるのかも知れないと思はれる。あの時、千圓の金はどうしても取らないと言つて、池袋の駅で、無理矢理突つ返されてしまつたが、ゆき子が、泣きながら、自分だけが幸福になる為に、人を犠牲にするのかと言つた事が、いまでも判然りと富岡の耳についてゐた。
2012年19日 林芙美子『浮雲』 こめんと0 とらっくばっく-
  

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