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--年--日 スポンサー広告 こめんと- とらっくばっく-

『歴史と終末論』ブルトマン著、中川秀恭訳、岩波書店、1959年

この本はいろいろ面白いことが書いてあると記憶しているが、スピード勝負の捨て読みにあたっては最後のページ(p.201)だけをメモしておこうと思う。

すなわち:
人は歴史の外に立つことができない…歴史の意味は常に現在にある。
歴史の意味は常にあなたの現在にあるのであって、…ただあなたの責任ある決断においてのみ見なければならない。
===

つまり実存主義的歴史解釈学の提唱(推奨)ということですかね。
それをキリスト者としてキリスト教信仰と歴史の問題から読み解いている、と。
しかしそれは他の宗教信者にも当てはまるものと理解できる(本書はそこまでのスコープで書かれていない気はするが)。

この本の内容についてフルに理解しているとは自分で思ってないが、ここからひとつ思うのは、昨今の「大学から(いわゆる)文系学部を改組・追放せよ」みたいな昨今出ていた論調である。いわゆる文系(※「いわゆる、いわゆる」とうるさくて恐縮だが、個人的に知識に理系文系もないと強く思っているので)ないし人文学部を淘汰したらそれはUniversityではなくCollegeになってなんだか技術学校になるのでは。知識のUni-te性(Universe性でもいいし、リゾーム性と言ってもいい)は失われ、「なんでこの基礎研究・技術研究やってるんだっけ」てなことにならないか。社会や人間や歴史との接点を深く学ぶ手段を失った"理系"知識や技術に、果たしてどれだけの意味があるのか。

多分、現実的に日本の大学の文系講座は力を失っていて、改革すべきなのは確実だろう(←すっごい想像できるw)。そして実際はみな海外に行って英語で学んでいるのも想像できるが、「無くしてしまえ」というのはほとんどテロですね。日本人が自らの社会や歴史についてのSignificationを持てなくなり、なんか将来的に全体が工場労働のロボット奴隷にさせられてしまう気がしてならない。もちろん、50年とか70年とかの時間を経て、ですよ。

まぁ急激な高齢化・少子化により、どっちにしろ社会装置としての大学が維持できなくなる可能性もありますが…。

ブルトマンからは話が飛んでしまいましたが、歴史を個々人が引き受けるという営みに関して、上のようなことをもやっと考えた次第。
2015年23日 書評deヘンテコ こめんと0 とらっくばっく-
  

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